2015年2月9日月曜日

今朝の枕頭読書




● 「君子は坦らかにして蕩々なり、小人は長く戚々たり」(述而第七)

● つまり、大人、よく出来た人は、気持ちが坦らかで、蕩々。蕩々とは、のびのびしておること、いわゆる春風駘蕩としている。大人と言われるような人は、いつも気持ちが坦らかであって、のびのびとしている。どこが偉いのか分からないが、そんなことは感じなくて、とにかく気持ちが坦らかでのびのびしている、という意味。

● この後半は逆になりますが、小人、余り出来の良くない人間は、いつも戚々、戚々とはくよくよしている姿であり、いつでも、いつまでもくよくよしている。

● その状態を言っているのでありまして、人間はどうすれば坦らかで蕩々としておれるかという方法までは書いてありません、また人間はいつもくよくよと戚々としていることを好むものではありませんが、どうすれば、そこから脱出することが出来るか、については書いてありません。出来上がった状態を記しているだけであります。

● 学校で勉強する学問は、頭の学問、知の学問であります。心の学問というのは、気持ちの学問、即ち情的の学問であります。こう、知と情と黒板に書いて気がつくのでありますが、何と、これは全部とは申せませんが、大部分、大体はこの「君子は坦らかにして蕩々なり、小人は長く戚々たり」という言葉は、気持ちの学問、情の学問であります。
坦らかにしてのびのびしているとか、いつもくよくよしている。この「のびのび」した心、「くよくよ」した心は知識の学問ではなく、むしろ情的の問題であります。

● 自分の考えがよいと考える人は、その考えを考えつづけて、十年・二十年・三十年考えつづけておるようなら、必ず立派な生活を築くことが出来る。中学で習ったことが、三十年後に初めて分かるというような人は必ずそこに人間の成長あるのです。

● ああそれは十年前に聞いたがまだ私にはよく分からない、そういう生活は求めている生活でありますから、絶えず深くなる生活なのであります。

● なかなか本当のことは分かりませんが、その代わり、本当の言葉はみんな、あっち、こっちでつながっているのであります。だから、百も二百もいろんなことを覚えるよりも、本当のことを一つ求めて分かれば後はみな自然に分かってくるのであります。皆つながっています。

● 人生というものは、言葉は日に消えて、また日に覚えていたから分かったというだけではないのであります。大切なことを一つ覚えておれば、一生それで生きられるような、そういことであります。大切なことはあっちこっちみんな別々に説明してありますが、それは説明の仕方が違うだけであります。

(『論語を楽しむ』 平澤興 220~232ページより)



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