2015年2月6日金曜日

字面を追うという読書にチャレンジ!




● 読者諸兄にぜひお薦めしたいのは美術出版社刊、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳<見えるものとの対話>です。全三巻の大部ですが、絵画のみならず文章を書くうえでも重要な示唆を与えてくれるでしょう。これは十七歳になったばかりのときに読んで、夢中になりました。私の漢字に対する確信は、このフランス人によってもたらされたのですから、なんとも不思議に気持ちにさせられます。

● さて、絵を言葉で語るということ。
それに深く慣れ親しんだ一時期が私にはあるのです。つまり私は見えるものを言語であらわすことに慣れきっていた。
いいですか。当時の私は、おそらく同年代の若者より巧みに目に見えるものを言語化することができたのです。そして、その延長線上に小説家という職業がある。
小説家とは、絵画という特化されたビジュアルのみならず、人の生と死という絵模様を(最小限の)言語であらわす職業であり、職人なのです。最小限という括弧がついているのは、多くの言葉を費やすことによって焦点がぼけることを自戒したものです。

● 読んで即座に理解できる本を読むのは、愉しみとしては申し分ありませんが、勉強にはなりません。勉強は、いま、わかる必要はないのです。理解は三年後、十年後で充分なのです。ですから自分にとって難しいと感じられる書籍を積極的に読む必要があります。すなわち、とりあえず字面を追っておくべきなのです。
ちゃんと学校に通ってしまった人の悪癖とでもいうべきものに、随時行われる試験に受からなければならないといった思い込みがあります。そこから派生して、読んだらすぐわからなくてはならない(つまり答えを書けなければならない)といった強迫的な思いがあるように見受けられるのです。

● もうひとつ指摘しておく大切なことがあります。読んでもよくわかないものを読むということは、凄まじいエネルギーを必要とします。面白くなくても強引に集中するのですから、その集中力たるや、尋常ではありません。私のスタート時には父の強制があり、十七歳のころには見栄がありました。さらに柔軟な脳と体力があったのです。
つまり歳をとってから、こういったことをするのはなかなかに骨の折れることであるということです。やはり、行うべき時期というものがあるのです。そこから外れると並大抵の努力や頑張りでは追いつきません。

(『父の文章教室』 花村萬月 178・180・196~198ページより)

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

大好きな著者の花村萬月さんのお薦め本!!!

★ 『見えるものとの対話』 ルネ・ユイグ

見えるものとの対話〈第1〉 (1962年)

見えるものとの対話〈第2〉 (1962年)

見えるものとの対話〈第3〉 (1963年)


さっそく、手に入れ少しずつ読み進めていましたが・・・、やはり今日からは、積極的に字面を追い進めることから始めようと決意しました!!





0 件のコメント:

コメントを投稿