● 『論語』は、東アジア最重要の古典である。
● この書物を伊藤仁斎(1627~1705)は「最上至極宇宙第一の書」と評したというが、私も同じ意見である。
また、その冒頭「学而」の一章を、仁斎は『論語古義』において論語の中の論語、「小論語」と評したが、私も同じように考えている。
● 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
このわずか32文字の中に、『論語』という巨大な宇宙を支える基本思想が凝縮されている。
その基礎概念は言うまでもなく「学」と「習」とである。
● 論語のいう「学」は、このような呪縛の契機を含んでいることがわかる。
学ぶというのは、そういう危険な行為なのである。
それゆれ、学んだことを、無反省に、一生懸命に復習したり練習したりすることを、孔子が薦めていたとは考えにくい。
そもそもそれは、あまりやる気のしない行為であり、人間の本性に反する。
● 「習」というのは、「身につく」と解釈して誤りではあるまい。
● 「學而時習之。不亦説乎。」の意味は、
何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは、よろこびではないか。
ということになる。私はこれに完全に同意する。
● これはどんな人間にとっても嬉しいことである。
これは人間の本性に適っている。
学んだことが、それだけでは身につかず、時を置いてあるとき、ふと、身についている、そういう風に人間は学習するものであり、そのときに喜びを感じる生き物である。
学習を通じて成長することに、人間は喜びを抱く。
これがその本性である。
● 「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。
より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。
ここには余計なものが染み込んでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。
それがある時、「習」によって完全に身体化される。
すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」とわかるのである。
そうなることによって、不必要なもの、余計なものは解除される。
こうして呪縛から抜けだしたときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。
● なぜ朋が遠方から来るのか
私は、これを学習の過程の比喩的表現だと解釈する。
「学」によって何かを身に帯びている段階では、学んだことの本質と、まだ出会っていない。
● 「人不知」は、「人が知らない」とそのまま読むべきである。
「人不知而不慍」は、「人が知らないでいるからといって、憤激したり、悲しんだりしない」ということになろう。
では、「人不知而不慍」というのは、人が何を知らなくとも「慍」しないと、と言っているのであろうか。「不知」の対象は何であろうか。
今、議論しているのは、「学習の喜び」についてである。
第二文の「朋」の件も、学習の喜びの比喩なのであるから、同じ話題は続いている。
「知らない」という対象としては、二つの可能性がある。
ひとつは、自分が既に学び、習ったこと、である。
二番目は、「学習の喜び」そのもの、という解釈である。
それゆえ三番目の文は、
他人が知らないからといって、「こいつ、わかっとらん!」などとブチ切れたりしない。それはまったく君子ではないか。
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