2015年2月28日土曜日

昨夜の枕酒読書 『萬月夜話其の一』より



● 自己制禦の難しい不能感に近い快感を鑑賞者に与えることができるのが優れた映像表現の特徴です。

● 映画にかぎらずプロの仕事とは、こういうものでしょう。
密かに支配、洗脳するのが創作者の奥底にある、それこそ淫靡なよろこびかもしれません。

● 知る、ということは、いままで面白く鑑賞していたものが、実は屑だったということまであからさまにしてしまう場合があるのです。

● でも、知ることによって愉しみの質を深めることができる。
知るということは、判断のよすがを手に入れたということなのです。
それは陳腐なものを排除することにもつながります。

● いい、悪いを自分で判断できるようになると、また新しい世界が拓けます。
ほとんどの人が退屈だ、と投げだしてしまうようなものにじつは本物の宝石がまぎれていたりするのですよ。

● 私の職業である小説の分野でも、とんでもない才能の持ち主がいるのです。
私には幾人か、勝手に私淑している小説家がいます。
胸の裡で先生と呼ぶ小説家です。

● たとえばいまは亡き宇野浩二先生。
私としてはこの小説家に対する評価がいまひとつに感じられるのが悲しい。
もっともっと評価されてしかるべきです。
丹念に分析すると途轍もない境地にあることが理解されます。
晦渋であるようでありながら、じつは遊んでいたり仕掛けがあったりで、意外なほどの技巧の冴えに出くわしたりすることもあります。
しかも技巧を技巧と感じさせない老獪ささえあり、だからこそ技巧なのでしょうが、ときどき小説を書くことに迷いを覚えたときなど、宇野浩二先生の作品を読み返して、密かに唸っているのです。

● 鑑賞者である読者諸兄は単純に小説を愉しむだけでなく、もう一歩踏みこんで作品の本質的な才能を味わうために、逆に自分を高める算段をしてみてはいかがでしょう。
それにはどうしたらいいか。
漠然と物事を見ない。

● ちゃんと物事を見るためのメソッドとでもいうべきものがあるのだ。
骨董。
この途轍もなく怪しい世界に、物事を見る骨ともいうべきものがあるのです。

● べつに骨董品を買わなくてもいいのです。
見るだけでいい。
ほんとうは評価の定まった美術作品でもいいのだけれど、評価が定まっていることによって自分を鍛えることができないので、やはり骨董という得体の知れないところからはじめましょう。

● 自分の内部に絶対的な美の基準をもっているのです。
みんながいいと言うからいいのではなくて、あるいは評論家がいいと言うからいいのではない。
この基準がある人は、強い。
群れから抜けだすことができるでしょう。

● 旅行したときなど、その土地の骨董屋に入って、ちょっと焼き物を見てみましょう。値段はどうでもいいのです。
いいか、悪いか。
とにかく虚心坦懐に 自分で判断する。
こうしたことを繰り返すと、能力のある人はどんどん目がよくなっていく。
ひとつの分野でいいのです。
ある程度見えるようになってくると、他の物も見えるようになる。
理想をいえば私のように目利きの師匠がいれば、どんどん物が見えるようになっていくのですが。

(『萬月夜話其の一』 花村萬月 147~158ページより)

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