2015年3月6日金曜日

ワクワクしちゃう論語♪♪ 『生きるための論語』より




● 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

●  この章の私の読み下しと解釈は以下である。

子曰く、學んで、時にこれに習う。また悦(よろこば)しからずや。朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや。人、知らずして慍(いか)らず。また君子ならずや。

先生が言われた。
何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。
よろこばしいことではないか。
それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、 そういう楽しさではないか。
そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。
それこそ君子ではないか。

● この「学習」という考えは、論語の秩序論の根幹を為す。
この章が示すように、学習過程が開かれていることが、君子の条件である。
逆にそれが停止している人を「小人」というのだと私は解釈する。

● 孔子の考えでは、君子が社会の中枢を担っていることが、社会秩序形成の基礎である。

● 君子が居れば、周辺の小人はそれに感化されて学習過程を開く。

● 小人もまた心を開いて学習過程を作動させ、君子のように振る舞う。こうして社会に秩序が生まれる。

● 私の見る限り、この『論語』はこの「学習に基づいた社会秩序」という思想を、最も早く、最も明瞭に表現した書物である。
しかし、私は、これが孔丘という人物の独創だとは思わない。
それは、彼自身が繰り返し、自分の思想は、古の聖人の教えそのままなのだ、と言っているとおりだと思う。
孔丘がそれ以前の聖人と違ったのは、その言語が文字として記録された点である。
それも、彼自身が書いたのではなく、彼の弟子やその弟子が書き留めたものである

● 人間社会が人間の学習能力によって秩序化される、という思想は、おそらく、人類社会に普遍的に見られ、あらゆる時代のあらゆる場所で知られていることではないかと思う。
しかし往々にして人類は、学習過程を停止する誘惑に駆られ、常にそれを忘却する。
そして学習過程の停止こそが「規範」であり、その作動は「逸脱」である、という邪説を広めようとしてきた。

● 論語の思想にしても、ここ二千年くらいは、むしろ学習を停止させる方向で読まれてきた。
しかし、それでも古典というものは、いつも生命を回復させる
論語は、繰り返し、新しい生命を吹きこんで、思想を蘇らせてきた。
現代の我々はこの思想をまさに必要としているのではないだろうか。

(『生きるための論語』 安冨歩 14・25~29ページより)



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